パーソナルスペース
「謙也さん、距離近い」たまりかねて放った言葉に謙也が瞠目したのはつい先週のことである。
忍足謙也という男は良く言えば親しみ深く、悪く言えば慣れ慣れしい。運動部特有のスキンシップも相まって肩を組むだのは日常茶飯事だ。しかし、誰にでもそうだからといって限度がある。否、あからさまに悪化しているので指摘したのが事実だ。調子が悪くて顔を覗き込むだとか、親愛の情にしても放っておいたら額さえ当ててきそうな距離感はおかしい。四天宝寺テニス部にはそれすらもマジでありネタであるペアが存在するけれど、自分たちは違う。
親しげに話す部長の白石とだってここまでは近くない、明らかにもうワンフレームほど踏み込んできているのだ。それが無意識だと分かるからこそ堪らない。
財前は謙也のお気に入り、それは最早テニス部内での共通認識ともいえるほどの構いっぷりだが全てが享受できるわけではない。
つまるところ、照れるから勘弁してくれの意なのだが、お人好しで律儀な謙也の反応は極端だった。撫でようとする手はすぐに止まり下に落ち、肩を叩くのさえ窺う始末。いよいよ目を合わすのも怪しくなってきたあたりで財前はあからさまに溜め息を吐いた。途端、びくりとゆれる謙也の肩。
「0か1かしかないとかおかしいやろ。あんま挙動不審やとペア練なくなりますよ」
「それは嫌や!」
「即答」
四天宝寺に決まったペアはあるようでない。勝率が上がるのであれば無限の組み合わせを試すからだ。勿論、固定になることもあるが、謙也は銀と組む方が多い。財前はどちらかといえばシングルス向きだ。謙也と組むのはオーダーの自由度を広げるためで、たまたま相性が良かったからに他ならない。その相性こそが大切なのは百も承知で、信頼がなければ始まらなかった。そこを少しつついてこんなになるのであれば先が思いやられる。
即答したわりに続きをなかなか話さない謙也のおかげで思考が進んでしまった。言い訳のような長考だったが、財前とてペアを解消したいわけではない。ただ面倒なことになったとは思う。ついつい二度目の溜め息が漏れたところで相手が意を決したように口を開く。
「やって、財前とおるとすぐ触りたなってまうし」
「言い方」
「ちゃうねん!よしよしって撫でたなるし、かわええって構いたいし、ええプレイしたら抱き付きたなる!財前かわええ!」
「ええ……」
何が違うのかよく分からない主張と共に零れ出た内容は反応し難い。
「財前、そういうの嫌なんかなって思たら普通の距離ってどないやねんって迷ってしもて……すまん!」
ドン引きなトーンの相槌にますます縮こまり、両手を合わせて謝罪されてしまえば、自分の言葉も足りなかった気分になる。
「嫌や言うてませんけど」
「ほんまに?!」
間髪入れず顔を上げる相手は必死そのもので、急に全てがアホらしくなった。そもそもの流れが茶番すぎる。
はーーっ、と三度目の溜め息を大袈裟について、自分の頭を掻いた。
「好きにしたらええですやん、」
気を抜いた発言が口から零れ出る。
「人前で変なことせんのやったら」
「せやな!見えんとこで手ぇだすわ!」
「は?」
「あっ!」
無意識へ被せた無意識がとんでもなかった。完全に目を見開き固まった財前の前で謙也がみるみるうちに真っ赤に染まる。
「ちゃうねん!!」
「…………なにが」
渾身の力で叫んだ相手に間を置いて返した財前の顔も赤かった。
2019/06/03