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リトマスのたとえ

 部室のドアをくぐった瞬間から様子がおかしいとは思っていた。受け答えが緩慢であるし、いつもの五倍は覇気がない。足取りも遅く、己のロッカーへ向かった時点で謙也は気が気ではなかった。
「あぶなっ、」
「そこまで」
 財前が金属の扉へぶつかる寸前、肩を押さえた謙也と白石の制止が響く。
 衝撃と驚きで一瞬目を見開いたものの、またすぐぼんやりとしてしまう様子に白石が溜め息を吐く。明らかな寝不足である。
「財前、帰りや。怪我すんで」
 謙也ついてったり、と着替える前に二人して部室を追い出されてしまった。確かに送り届けなければ心配なレベルだ。
 真面目に諭されたのが効いたのか、思ったよりはしっかりした様子で歩く相手は登場の三割増しで目付きが悪い。ひたすら眠気と戦っているだろうことが窺える。
(寝付き悪い言うてたしなあ……)
 声を掛けるのも憚られ、とにかく進行方向に気を配ること数分、いつも別れる曲がり角が見えてきた。
 ちらりと隣を窺い、思案する。財前の家より謙也の方が幾らか近い。この先の交差点は中途半端に入り組んでおり自転車のマナーも悪かった。家まで送り届けるのは構わないが、遠回りしてでも安全な道を選びたい。そこまで考えて、ふと思い出す。確か――
「今日、約束あったやないですか」
 口にするより早く財前から聞こえて思わず足が止まる。曲がり角数歩前、自分たち以外に人影はない。
 そう、今日は帰りに謙也の家に寄る予定だった。突発的なことも含めてよくある話で、もはや財前は玄関を顔パスだ。
「ええてええて!いつでも遊べるやん」
「そうやなくて」
 笑って答える謙也に被せる声は些か不機嫌で、本人はその勢いを後悔したように言葉を濁す。
「すんません、いま頭働いてないんで」
「言うたらええやん、聞くで」
 普段より無防備にこぼしてしまったぶん、ここで聞かなければ気にしてしまうだろう。
 抱え込めばなかなか口を割らない性格なのは知っている。だからこそ、今度でいいやでは済まされない。単に謙也が短気なのもあるのだが、財前相手は押した方が話が進む。
 引かないと見てとると立ち止まったまましばらく黙り、やがてぽつりと呟いた。
「……楽しみにしてただけですけど」
「かっ、……」
 反射的に漏れた一文字を口にして空気を飲む。酷く喉が乾いた。
「か?」
「可愛すぎて意味わからん、なんなんお前。叫ぶん抑えて必死になったわ今」
 早口で述べる謙也に財前の反応が追い付いて来ない。眠さで思考が明らかについてきていないのだ。
「いやお前あかんて、道でそれはあかんやろ連れて帰るで。俺がどんだけ好きかっちゅー話や」
「はあ?俺のがよっぽど好きやし」
「え」
 ヒートアップし始めた謙也を遮ったのは明らかに目の据わった状態の財前である。
「あんたみたいにいつでも100%ぶつけられる奴ばっかちゃうねん。見掛けるたび好きやなってなるし一年の差うっといし、でも俺がタメやったら今みたいな可愛がる後輩の位置取られてまうとか胸クソ悪いわ。謙也さんは俺だけ見とったらええねん」
「そんなデレる?!」
「ああ!?」
 寝不足による苛立ちMAXでついに敬語も吹き飛んだ。呆然とするよりツッコミが優先される気質を感謝していいのか嘆けば良いのか。もはや威嚇へ移行する財前が読めないし怖い。もっと発言が際どくなるどころか口を塞がれそうな雰囲気さえある。この後輩は腹を決めるのが謙也より早かったくらいだ、むしろ二人きりになると誘導されている気すらする。ストッパーが完全に外れた現在、外でこれ以上の白熱は危険だ。
「わかった、わかったから、」
「何が?」
 ドスの効いた声と視線にヤケクソで返す。
「お持ち帰りしたったらええんやろ!」
 幸い金曜日で、明日は休みだ。何の用意もなく泊まっても許される積み重ねが二人にはあった。白石には悪いが――送り出された時点で帰ってくるものとは見なされていない気がする――こうなってしまった以上は寝かしつけるまで止まらないだろう。
 翌朝の照れ隠しめいた罵詈雑言まで覚悟して謙也は財前の手首を掴んだ。
 途端、細められた瞳が上機嫌に色を変える。説明すらも馬鹿馬鹿しい、甘えるときのそれだった。
「ほな、戦利品になったります」
「負けた気分しかないわ……」
 自分の家へと歩みを進めながらの重い息。週末生殺し耐久のスタートである。

2019/06/30

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