言われずとも
「可愛がってください」至極真剣な様子で訴える炭治郎に、冨岡はまず己の聴覚を疑った。
突飛な発言をするのは初めてではない。蕎麦の早食いを挑まれた事を考えれば、この弟弟子の発想は理解の外なのだ。勝手知ったる様子で屋敷に上がり込むようになってから甲斐甲斐しく世話まで焼きたがる。通いの女中などはすっかり炭治郎贔屓だ。
本日も持参の手土産は多めの干菓子で、皆さんでどうぞと笑顔で差し出せば厨から盛り上がる声が聞こえた。いそいそと良い茶葉で用意された盆が傍らに置かれ、向かい合う距離が近いと思いながら会話が始まる。最近の出来事を楽しげに語る相手に相槌を打つ、たまに感想や自身のことを付け加えれば尚更表情が緩むのが気に入っていた。
そして現在、もともと近い二人の間を埋めるよう身を乗り出す炭治郎の願いを反芻し、片手を持ち上げて頭へ乗せた。髪の毛を押す感触と体温が掌に伝わり、相手の表情から分かりやすく力が抜ける。撫でる、という所作に馴染みが薄いせいで加減がよく分からない。幼い頃、姉に撫でられるのを嬉しがったのも男の矜恃が生まれる頃には避けるようになってしまったし、己がそうする側になるとは思いもしなかった。だが、炭治郎は妹をよく撫でているようであるし、ならば請われた時に迷いなくできる程度は必要な気がした。
無言で注意深く頭の上を往復させることしばし、そっと伸ばされた炭治郎の手に捕まった。もういい、ということだろうかと逆らわずいれば両手で支えられ頬へと滑り落ちる。冨岡の掌が包む形を整えると頬を擦り付けて瞼を閉じ、掌と手首の境い目へ唇を当てた。ゆっくり開かれる瞳が揺れて、まっすぐ捉えた。
反射的に喉を鳴らし、口を開きかけて一度閉じる。意を汲めなかったのは不徳とするところだが、まずは伝えねばならないことがあった。額へ唇を寄せれば物足りなげな視線が飛び、受け止めながら自由な手で肩を掴んで鼻先をこする。
「お前には、そうしているつもりだった」
見開く瞳を見つめたまま、唇を重ねる。先程と違う揺れ方で色の乗る光をいとおしく思い、柔く食んだ。応じるよう吸い付く力に任せて求めあえば小さな音が耳へ届く。それだけで目元を染める様子が煽るのだと、教えたところで狙ってできる子どもではない。唇の隙間を舌でなぞれば、薄く開いて受け入れる。口を開けろと言わずとも察するようにしたのは冨岡だ。唇を合わせるだけでは終わらないと、匂いでだけでなく肩から後頭部へ回された手や吸い付く強さで炭治郎は把握する。遠慮がちに覗いた舌先を絡めて口内に押し込む。見つめ合う視線は少し潤んで、それでも再度瞼は閉じなかった。冨岡の変わる様子も見たいのだと、いつかの夜に聞いたかもしれない。粘膜を擦らせて上顎を舐めあげるうち、思考より感覚を優先した。必死に自分からも舌を動かす炭治郎相手に不誠実というものだ。いつの間にか冨岡の肩へ縋るよう置かれた手に力が籠り、舌裏を辿れば小刻みに震えた。伝う唾液を飲み下す音にも興奮を覚え、手の甲へ涙が落ちるまで唇を離さなかった。
息も絶え絶えに解放された炭治郎が目尻を擦るのを許さずに舐めて拭う。上気する頬や顎を流れるぶんは羽織りの袖口を当てるうち、そっと布を掴む指。
「……俺が誘うの下手すぎてすみません」
「いや、」
心から不甲斐ないといった様子に瞬きを止めた。つまりはそういう意味での言葉であり、額面通り受け取った己の反論はずれていたというわけだ。そしてそれよりも、言動行動に至った事実そのものに思考がまとまらない。
「断り切れないのでは、と思っていた」
「ええっ?!」
しおらしさを瞬時に取り払った炭治郎が目を丸くする。
「お前は俺を好いてくれているから、」
「いやいやいや、好きだから嬉しいんです!義勇さんが俺を求めてくれるのが嬉しくて、匂いもいつもより強くなるしもっと欲しくな……あああ今のは忘れてください!」
普段の声量を取り戻して遮った勢いは冨岡の言葉を打ち消さんとばかりに並べ立てられるも、途中で我に返って両手を上げた。
「忘れない」
間髪入れず答え、再度、今度は自ら頬へ掌を添えてまだ潤む瞳を覗き込む。
「お前からの言葉を忘れるつもりはない」
一拍ののち、茹だるがごとく染まった炭治郎は小さく口を開けたまま固まり、小さく答えた。
「ありがとう、ございます…………」
満足げに抱き寄せながら安堵の息を吐き、落ちついたつもりで冨岡は考える。
据え膳であれば、応えるのが道理だ。炭治郎だけに当て嵌まる大前提だと言い訳しつつ、まだ日も高い現実は頭の隅に追いやった。
2019/11/02