かえしたくない
炭治郎は知人を見掛けたら必ず挨拶をする。少し距離のある方から呼ぶ声が聞こえれば駆ける足音と共に笑顔を見せてくるのだから、大抵の者は邪険にしない。本日も冨岡の姿を見て嬉しげに寄ってきては勢いで話し始めたので、ぽつぽつと相槌を打っていた。「あっ、お引き留めしてすみません!」
喋るだけ喋って思い出したように謝るのは一度や二度ではない。おそらく親愛が気遣いを上回ってしまったことでやらかすのだろうとぼんやり考える。
それではまた、と立ち去ろうとする炭治郎をいつもの如く見送ろうとして違和感を覚えた。片手が掴む布の感触、それは相手の羽織に他ならない。つまり今、冨岡は炭治郎の袖をつかんで引き留めたのだ。目を疑うが己の手に相違ない。振り返った顔が何かを言う前に口にする。
「手が勝手に」
「勝手に」
真顔で繰り返す炭治郎、自らの行動が信じられないとばかり掴んだままの手を見つめる冨岡。両者硬直、先に復活したのは炭治郎だった。
「義勇さんさえ良ければ、この後のお時間をいただけませんか!」
中途半端な体勢から半歩戻ってくる。気合の入った声とは裏腹に袖を掴む冨岡の手の甲へそっと掌を重ね、心配そうに顔を覗き込んできた。
「近い」
「あ、はい」
「ちがう」
「はい?」
端的に零れた音に慌てる相手を被せて引き留め、今度は首を傾げるのに言葉を選び直す。迷いなく見つめる瞳に若干の後ろめたさが過ぎった。
「それ以上近くは、屋敷にしろ。抑えられない」
途切れながらもごく低い音で言い聞かせれば、みるみる相手の顔が染まる。
「じゃあえっと、着いたら抱き締めますね!」
何故、俄然張り切って自由な拳を握るのか意味が分からない。じゃあ、に続く言葉もおかしい。嬉しそうな炭治郎にますます混乱して冨岡が告げた。
「声が大きい」
未だに手は触れあったままである。
2019/10/10