trick for you!
from 炭治郎
「お帰りなさい!」バイトの面接から帰ってくれば元気よく迎えられてしまい、頷いて応じる。やはり居たのか、の気持ちと何となくの安堵を覚えて混乱した。孤独を感じる前に幽霊が現れたお陰で、センチメンタルは消え失せている。姉から入った電話でも、私だけが寂しいみたいと言われてしまった。単に感覚がバグっただけだと伝えたいがままならない。
風呂、食事と順に済ませて布団へ潜る際、付かず離れずの位置に落ち着くのもあっさり慣れた。
初日こそ、このまま寝て大丈夫なのかと思ったが、部屋の隅で大人しくしているのを見たら逆に気になってくる。逡巡のち、声を掛けた。
「別に近くてもいい」
ぱあっ、と明るく輝くその顔といったら。およそ懐かれる要素のない人生を送ってきたせいで、視線を逸らすしか出来なかった。
こんな屈託のない幽霊がいるものかと思うが、実際目の前で笑っているのだから否定の根拠はない。
話を聞いていると、全く記憶がない訳でもないらしい。ぼんやり少しずつ浮かんでくるとかいう言葉を信じるのなら、生きていたのは大正で、目的の為に戦っていた。漠然としながら、いきなり物騒だ。このアパートが曰く付き物件なら地縛霊を疑うところだが、そんな噂は聞かない。
「俺も幽霊には会ったことがなくて」
至極真面目に返答するのはやめて欲しい。
そして、まるで他のものには出会ったかのような口振りが引っ掛かる。
「熊とか」
「熊」
現代でも即死案件だ。会話が引き金になるのか、話すうちにぽつぽつと記憶を辿る様をこの数日で何度も見ている。意外と思い出すのは早いかもしれない。
「死因か」
「直球ですね」
しかし動じない相手は静かに首を振る。やはり耳飾りは鳴らなかった。
「そういうのじゃなくて。夜の山に、父さんと」
明らかに危険すぎる語り口に思わず身構えた。しかし、言葉を止めた少年は確かめるよう緩やかに瞬いて、静かに一言だけ。
「ヒノカミ」
呟いた本人が不思議そうに指で己の口許へ触れるのを黙って見つめる。
それは何か、聞くことを身体全体が拒否した気がした。
***
「わあ!パンケーキってこんなに簡単に作れるものなんですね」
ホットケーキミックスで感動されるとなんとも言えない気分になる。だがたしかによっぽどでなければ失敗しないという点では現代日本の軽食は優秀だ。家庭事情で姉と二人きりなのもあって、牛乳を混ぜるだけのデザートの素やらカップで作れるお手軽なんたらだのは一通り経験している。年齢差もあってなかなか火は扱わせて貰えなかったが、調理実習をする頃には味噌汁やうどんくらいは手伝えたし、惣菜と合わせての食事当番まで進歩した。
一人暮らしを始めてまず思ったのは、自炊における手間と安価は反比例の事実だ。好物の鮭はまず高い、コンビニで買える手間要らず商品を選ぶならスーパーで特価品を焼いた方がいい。この、実家であれば当然のことが一人になると途端に面倒になる。調理器具を詰めた箱には電子レンジで魚を焼ける容器だったり、便利アイテムがそれなりに入ってはいたが、洗わずに捨てられるなら出来合いを選ぶ気持ちも分かった。授業が始まった際、果たしてどれだけ自炊できるのだろうか。
別に何もない今こそある程度怠けても良かったのだが、定食家やファーストフードで済ませる間、部屋で一人浮いている相手を考えると微妙な気分になった。何も触れないし、外へも出れない。二階の窓から見える景色にも限度があるし、夜に自分が寝入ってしまえば本当に静寂だ。気を遣うのは馬鹿馬鹿しいと思いはするのに、出来るだけ家で食事をする。煮物を作り始めた時には口出しまでしてきたので、もはや生活の一部となりつつあった。一人暮らしの概念が歪む。
ふんわり膨らんだホットケーキは姉の好物で、家でも絵本で見たような厚みが出せると知って真剣にレシピを漁った。ホットプレートで焼くのを見守ってくれた日が懐かしい。なんとなく勘で再現できるほどには作り慣れてしまったそれは、手軽な朝食メニューのひとつだ。チューブ状のバターで輪を描いて、シロップを編み目にかければ出来上がり。つい綺麗に仕上げる癖は、姉へ出すのが前提だったおかげである。
傍らで楽しげに覗き込まれるのも不快ではない。絆されている自身へ複雑な気持ちになりつつ、ナイフを入れようと手を動かした矢先。
「懐かしいなあ、御馳走になったことがあります」
感情の籠った柔らかな声に手が止まる。
「洋食は詳しくなかったんですが、あれもこれもと楽しそうに教えてくれるから俺も気になって。一緒に行こうとか皆を誘ってとか話が盛り上がって……」
笑って述べる瞳は遠くを見ている、ここではないどこか。記憶を辿る時の少年からは常の騒がしさが失われ、何故か不安を煽る。
「俺も誘いたい人がいて、」
誰だろう。呟く相手の視線は何も捉えておらず、突然わきあがる焦りで手からフォークが落ちた。
「わわっ、」
慌てて手を伸ばす少年を当然すり抜けた金属が音を立てて机に転がる。自分が動けないでいるうちに大きな瞳が見開いて、寂しげに笑う。
「床じゃなくて良かった」