来し方行く末
テレビはなくともネット回線のある昨今は情報が早い。進学に合わせて購入したノートパソコンでニュースを検索して視線を留めた。桜の開花予報がカレンダーで示されて、入学式も近いのだと気付く。相変わらず近くで浮いている少年は視線を受けると朗らかに微笑む。受験期ならノイローゼを疑うところだが、本日まで体調を崩す気配もない。祟りや呪いならとっくの昔にどうにかなっているだろう。
「春が来るんですね」
静かな、決意の声だった。真摯な眼差しは
「そろそろお暇します」
「何処へ」
そうか、と答えるつもりの口は詰問のような音を投げつけた。相手は怯むでもなく在るべき場所へと返してくる。
「お前は俺を知っているのか」
「実はそんなに知らないんです」
それこそ本当に困ったようにくしゃりと笑う。
「趣味は詰め将棋だとか、好物は鮭大根とか。……犬はあまり得意じゃないとか」
室内で知り得るはずのない情報、話題にさえしなかったものを何故。聞くより早く首が振られ、困り笑顔のまま語り続ける。
「どうして苦手かまでは知りません。ただ、距離を取ることが多かったから、どうしましたか?と聞いたら無言で」
思い出し笑いは優しく、そして寂しさが混ざった。
「義勇さん、誤魔化せないんです。黙るから余計に誤解もされるのに」
呼ばれているのは自分の名でも、挙げたのは果たして誰なのか。
「俺も嘘がつけなくて」
「そうだろうな」
「だから、聞かれたら答えてました」
吹っ切れたように告げる相手に、先延ばしにしていたことを自覚させられる。聞きたくないと心が騒ぐが、止めるすべがあるものか。
「全部思い出した、って」
あのフォークを落とした日から、記憶の話をしなくなった。分かっていて、一切そこに触れないでいた。次にこの話をした時が終わりだと、理解していたから。
「俺はお前を知っているんじゃないのか」
「知らないならそれでいいんです」
喉の奥が締まる。情けないほど掠れた声がこぼれた。
「何故だ」
「元々此処に俺は居なかった」
「やめろ」
「本当はもっと早く気付くべきだった」
「やめろ」
「楽しくなって、このままでもいいか、なんて」
「やめろ!」
ついに叫んだのは悲鳴のようで、自分の頭に一番響いた。嘆願めいた音が落ちる。
「別れを、言うな」
「義勇さんが好きです」
息を飲んだ。ひたすらに真っ直ぐな、曇りのない瞳で伝えては頭を下げる。
「俺を望んでくれてありがとうございます。これは俺の後悔で、未練でもあった。ただ穏やかに過ごす日々が欲しかったなんて、随分我が儘な願いを叶えてもらってしまった。本当に本当に幸せでした。だから、ちゃんと返しますね」
「誰に」
ただ笑う、そして答えない。
「お前は誰だ」
喉から絞り出した最後の問いに、泣きそうな顔で笑って両手を伸ばす。頬が包まれるのが分かる、触れてなどいない、触れられるはずもない。体温の伝わらぬそれが呼吸を止める。
「大丈夫、未練ごと俺が持っていきますから」
「―――!」
呼んだ声は音にならなかった。確かに知っているはずなのに、こんなにも胸を焦がす存在であるのに。
がくん、と落ちる感覚で両の目を開く。
いつの間にか眠っていたらしい、転た寝でかたまった身体が痛い。机から身を起こしかけて違和感に気付く。寝起きでぼやけた視界ではない。
はらはらと頬を涙が伝う。
自分は何故泣いているのだろう。分からないのに涙が止まらなかった。
窓も開けていないのに風が頬を撫でた気がした。