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来し方行く末

 引っ越してからの記憶が若干曖昧だ。出不精でもないつもりだが、やけに家に居たし、おかげで大学周辺の散策がほとんど出来ていない。ある程度は地理を叩き込んでおかなければ困るのは自分だ。サークル勧誘を悉く会釈ですり抜けて学校を離れ、昨日とは反対側の通りへ向かう。コンビニやチェーン店と共存する商店街は、学割を掲げてなかなか盛況だ。特に定食屋は通いたくなる魅力がある。
 アプリで位置を確かめながら歩いていると、通りの端に看板を見つけた。ベーカリー、の文字は読めたのでパン屋だろう。花屋、金物屋と順に確かめて、辿り着く。手書きのウェルカムボードには今日のおすすめがカラフルに並ぶ。イートインも可能とのことで、窓から覗く範囲で確かに奥に机が見えた。朝食ぶんの調達と、場合によっては少し食べてもいいかもしれない。
 入口へ進もうとしたところ、背後から元気な声が響いた。
「こんにちは!いらっしゃいませ!」
 まさかの店外での挨拶に困惑するうち、追い抜いた誰かが扉を開ける。どうぞ、と促す相手は明らかに学生服を着ており、自分の知識に間違いがなければ近隣の中学だ。
 耳で揺れる金属音、花札のような大きな飾り。大した距離がないにせよ、耳に届くものだろうか。もっと、そう、顔が寄るくらいでなければ聞こえないはずだ。
 幻聴を疑う動揺の中、店の奥から少年を呼ぶ声がする。母親のようで、すみませんとか謝罪も聞こえた。いや、それよりも、大事なものが頭に残る。
「炭治郎」
 思わず舌に乗せた呼び名は懐かしく、清水のように胸に染みた。突然呼ばれた相手は気にもせず、陽だまりのような笑顔を向ける。
「はい、竈門炭治郎です!よろしくお願いします!」

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